Gary Earth

 


 Gray Earth

 極寒の外気に晒されて冷たくなった珈琲のカップを手に取りながら、天井に大きく開いた望遠窓を振り仰ぐ。腰掛けた年季物のロッキングチェアが控え目な軋み音を立てて揺れた。
 重く暗い曇天から、真白い結晶の新雪と見紛うような灰が降りしきる。いつから降り始めたのか最早分からないそれは、降灰すると天蓋を滑って縁から地に落ちていく。
 白く染まった大気と同化する大地の遠方は久しくその境目を失くし、全部が、灰に呑み込まれている。
 当然の結果だ。誰に見せるともなく口元を不器用に歪め、それから珈琲を啜った。冷たい。空気と同じだ。
 全部、僕らがやった。この世界の色を失くしたのも。この世界の人々を追い立てたのも。
 僕が好きな熱い珈琲を飲めなくしたのも。全部、僕らがやった。
 でも、その引き金に指をかけたのは、僕らじゃない。
 僕らは、我々の総意の具体例に過ぎなかったのだ。だから、僕らは従った。引き金の先に繋がっていた鋭い唯一の暴力として。絶望を振るった。世界に対して。我々に対して。
 全部、僕らがやった。後悔はしていないし、多分、できない。
 カップに口をつける。冷たくなった珈琲は既に液体ではなく、凝固した固体に変化していた。
 浅くため息を付き、カップを卓上に置く。
 そんな時だった。空との境目がなくなった真白い大地の向こう側に、人の気配を感じたのは。生き物の気配を自然に感じたくらいだったから、僕が特別、何かをする必要はなかった。
 静かに降りしきる灰の奥から、彼女は黒い傘を差してやって来た。天蓋が覆うテラスの手前で立ち止まる。わざとそうしているのか、傘の縁に遮られて彼女の視線は僕と直接交錯しない。
「寒いでしょう。入ったら?」
 彼女は短く首を振り、それから予め用意していた言葉を若干の間を置いてから発した。
「お疲れ様」
「……うん、ありがとう。博士も」
 僕のそれとは全く違う、見る者の心を明るくしてくれそうな淡い笑みを最後に浮かべ。
彼女はその場に、降りしきる灰達と同じように、身体を落とした。
「おやすみ、博士」
 曇天から降りしきる灰が一層強まった気がした。彼女がこの地上に残った少ない人類の一人であったという事実を隠匿するかのように、灰達は彼女の黒い体を覆っていく。
 望遠窓から再び、上空の曇天を振り仰ぐ。意識して一度、瞬きをした。眼球の分子構造を平常時から準有事時戦闘態勢用に再構築し、擬似水晶体鏡の倍率を所定管轄まで拡大する。目標捕捉の為、視覚伝達方式を従来式から変換し可視領域を拡大確保。
 大気を埋め尽くす降灰と曇天を突き抜け、そのはるか上空にまで可視領域を延長した。黒い海の中で煌々と輝く星の世界を大気圏の終点である熱圏に留まって背負う、彼の姿を捉える。
「ねえ、聞こえる?」
『……ああ。どうした、コーロ』
「どうして、博士は残ったのかな」
『さあ、知らんな。探る権利は誰にでもあるだろうが、俺はそれを推奨したりはしない』
 そうばっさりと言い切った後、しばらくして彼は聞こえるか否かくらいの小さな舌打ちをした。彼は、僕らの中で誰よりも、我々の総意の結果らしくあった。始めから、終わろうとするこの時まで。分水嶺を弁え、一つの結果として従属してきた。彼がそうしたから、僕は彼をそう解釈したから、僕らは唯一大地で生き残った。
 だから僕らは、我々の総意の最終段階として今、この荒廃した地球から、我々の残滓を追いたてようとしている。
 けれど、それは我々の総意にそぐわないものだ。
──僕らは、我々を逃さない。
『……コーロ、来るぞ』
「うん、分かった」
 可視領域を準有事監視態勢から有事戦闘態勢へと移行、各軌道衛星とプログラム同期を完結。単視覚認知方式から複視覚認知方式へ展開。所定捕捉領域を予測。最後に、遥か上空の成層圏で唸り声を上げ始めている彼──シーラと視覚伝達情報を共有する。
シーラの身体を覆う深銅色の鱗鎧が、彼の周囲で急速に膨張する力場の影響を受けて多彩色に煌く。虹彩に我々から付与された殺意が宿り、静かな灰青色から毒々しい蘇芳色へと変貌していく。かつて生きていた僕らを含めた我々を噛み砕いてきた、牙の列がむき出しになる。
彼は一人の我々から、一匹の脅威、最後の獰猛な一匹の竜となった。
 大地が何の前触れもなく、震え始めた。やがて大きな地鳴りが真白い世界のどこかで同時に轟き始める。大地を通じて届いた震動が卓上のカップを落とした。カップの中身を模った珈琲の塊がごろりと転げ出る。
 我々の残滓は、僕らが荒廃し尽くした我々の故郷を置いて、あの暗く、しかし綺麗な星の海へと飛び出そうとしている。数世紀以上もの遥か昔、新天地を求めて飛び立った先達の軌跡を追うように。
 僕らは、我々を逃さない。いつか昔、我々は僕らを製造し、僕らに一つだけの生き方を与えてくれた。
 それは絶対唯一。守れなかった僕らの殆どは、いつか昔の僕と彼によって壊れていった。
 膨大な量の燃料を放出して大地を離れた我々の乗る舟が白い世界の中を上昇し、曇天を突き破った。青白い炎を引っ提げて一直線に宇宙を目指す。軌道衛星との同期によって拡大した可視領域にその姿を補足し、それに追随して彼が標的を捉える。
『最後の審判だ』
「うん」

                    *

 <戦争>が始まってから数十年経った頃、全世界の人口は当初の一割以下にまで減少していた。それは我々の総意として、順調な推移を辿っている。僕らは当然そのように考えていた。
 もらった飴玉を転がし、光源の絞られた仄暗い部屋の中で書類の山に埋もれながらもどこか余裕の表情で仕事をこなす博士の横顔を見やる。
「どうしたの?」
 優しい口調で、しかし視線をこちらに向ける訳でもなく博士は、僕にはてんでちんぷんかんぷんな内容の書類を処理していく。
「ううん、なんでもない」
 若干眼を伏せて否定し、飴玉を奥歯で砕いた。博士の左手から見える窓の外は暗く、それでも真白い雪のような灰が静かに振り続けているのが何となく分かる。雪なんてものは、文献の中でしか見た事がないけど。最初にそれが降り始めたのは多分、10年くらい前だったと思う。
 どこをみても砂漠だけだった世界の中で唯一木々が僅かに残っていた、アフリカ大陸とかっていう名前の西の果ての大地を焦土に変えた時だった。
 世界気温は急激に低下し、減少していた生物の多くが絶滅した。我々の多くもそれが引き金となったのか、次々に発生する疫病や変化する環境の変化に適応できず、人口を著しく減らしてきた。
「シーラは?」
「先日、怪我したんでしょ。ドックに回してあるから大丈夫。……心配?」
「ううん。……ねえ、博士。我々の望みは、変わってない、よね」
 博士は暫くの間を置いてから握っていたペンを置いた。椅子に座ったまま振り返り、優しい感情を湛えた視線を向けてくる。
「どうして?」
 僕は話した。数十年の戦争を経て、<審判>を繰り返す毎に我々の、僕らを見る眼が変わってきている事を。我々が減少し、我々の望む姿に近付いていながら、我々はそれを怖れているかのように見える事を。
 博士はあの変な味のする煙草を咥える。
「私達は遠い遠い昔から、貴方達のような存在を生み出そうと何度も試みてきた」
「僕たちのような?」
「ええ、貴方達のような。私達には常に拠り所が必要だったの。でも、その度に私達は失敗し、その度により高次的な、より完璧な拠り所を求めた。私達を導いてくれる絶対的な拠り所を。……コーロ、私達は絶対的な物を畏れるの。貴方達が生まれるまでの遥かな過程の中でも、多かれ少なかれそういった存在は畏怖されてきた。その畏れが、人々の未来に安寧を齎してくれると、私達は信じている。一部の人はそれを忌避し、多くの人々を扇動するかもしれないけど、決して私達はその拠り所を手放そうとしたりしないはず」
「……よく、分からないな」
「ふふ、まだそれでいいの……あ、コーロ、もう時間ね」
 博士は腕時計を見ながら言った。次の審判の時間が近付いている。博士の部屋を後にする時、彼女は僕を呼び止めた。
「コーロ、忘れないで。貴方達が正しいかどうかを決めるのは、私達ではない事を。そして、貴方達でもない事を」

 審判が終り、一つの大陸がまた焦土になった。博士のもとへ戻った時、勢力を異にする学者達の造反によって彼女は消息を絶っていた。

 あの頃だった。僕らが博士の言うように、我々から本当に恐れられるようになったのは。
 僕らは、もう一つの大陸を文字通り消し飛ばし、それから僕らと壊し合った。

 そうして、やってきた──

                    *

 また一つ、舟が墜ちた。機体が中空で爆散し、火を纏った残骸が落下する中を、一頭の大竜─?シーラは可視領域内に記した回避軌道に沿って飛翔していく。
大気圏を駆け上る舟は全部で三機。一機目が撃墜された隙に、下方からやってきていた二機目がシーラのすぐ傍を轟音と共に駆け上がっていった。シーラは焦ることもなく、両翼を羽ばたかせ、いとも簡単に二機目の舟へ追いすがった。船体側面に敷設された砲台群が一斉に旋回し、砲口が火を吹く。身体を翻しながら加速度的にシーラは飛翔し、近接感知式の榴弾の嵐を避けて舟を追い抜く。
『──目標再補足』
 シーラの口腔内に灼熱の殺意が揺らめく。正面からシーラに機体をぶつけるつもりか、舟は回避軌道を選択する素振りすら見せない。優先攻勢軌道を、目標を捕捉した可視領域に複数展開、シーラはその中から一つを選び、そして即座に降下し始めた。
 すべての音を置き去りにし、舟の先端に肉薄する。機体前頭部の砲台群がすべてシーラに狙いを定めている。衛星軌道とのプログラム同期によって展開した複数の可視領域の一端を弾幕が埋め尽くす刹那、シーラは急速旋回して舟の側面に強引に回り込んだ。
 口腔を裂けんばかりに開き、気化した高反応度科学燃料を吐き出す。口腔内で最終反応を起こし自然に発生した火が、拡散した気化燃料を巻き込んで強大な爆圧の炎を生み出した。それは舟の機体後方部分をエンジンごと消し飛ばした。唯一の推力の糧を失い、重力のままに傾ぎ始めた舟に向けてシーラは再び炎を放った。
 一機目と同様に舟は四散し、残骸と共に宙に放り出された我々の生存者が落下していく。
 しかし彼らは外気に晒され、たちまちの内に体温をすべて失っていった。
「最後のがもうすぐ来る。準備して」
『分かった。奴もそこか?』
「うん。たった今確認した」
 可視領域圏内に、最後の我々を載せた舟が現れる。地上の発射施設から軌道修正プログラムを改変したのか、舟はシーラの滞空する空域から若干離れていた。最短接敵軌道を展開し、舟のもとへ導く。シーラは瞬く間に舟に接近すると、口腔内から再び気化燃料を拡散させ、こちらの指示通り機体後方部に炎を掠らせて見せた。エンジンの大部分が削り取られ、推力が減衰した舟は急速にその速度を緩める。
『奴はどこだ?』
 彼の問いを受け、プログラム同期を完結している複数の軌道衛星にアクセスする。そこから舟を宇宙へ向けて打ち上げた地上の発射施設を特定、即座に削除されたデータベースから船体の内部構成記録の断片をサルベージし、再構築していく。
 その過程で、三基の開拓団用星間移民船を設計した学者勢力の記録も引き上げた。その中には僕らの製造過程に関わった我々の一部の名前も記載されていた。唯一残っている舟──セラフィムの設計主任の名が、プロジェクト推進の調印文書の文末にあった。それを元に検索を展開し、搭乗者リストからその者の名前を洗い出す。簡単に見つかった。
「最前部左側──見えた?」
 地上発射施設からの防衛システムが急速起動し、排斥プログラムを展開してきた。軌道衛星を経由するネットワークの各部にデコイと自律型即応プログラムを散布しながら、同時に対象データベースを浸食してリアルタイムに船体内部の生体熱源を全て捕捉していく。その中の一つ、前頭部の熱源にマーキングを施した。
『見えた』
「エンジンの停止まで残り……15秒」
『充分だ』
 シーラは舟の前頭部まで飛翔し、その外壁に爪と牙を立てた。容赦なく装甲を引きちぎって内部に顎を侵入させ、そこにいたそいつを咥えて舟から離れた。
 稼動限界に達したエンジンが臨界に達し、船体を吹き飛ばして成層圏に散る。
 シーラは悠々と、遥か下層の雲海を中間圏で見下ろしつつ旋回してから、停止した。
『お前が我々の最後か……』
 共有した可視領域の中で、シーラが顎で咥え込んだ彼の姿が自分の視覚にも映し出される。シーラの牙に腹部を貫かれたそいつは口から鮮血を吐き出し、極寒の外気によって早くも死にかけている。
「貴方が、僕らの生みの親?」
「……は、ハ、よく、ここまで、やって、くれ、たよ。人類は、終り、だ……」
「その願いを、貴方は博士と一緒に僕らに託したんでしょ……」
「私達は、いつも拠り所を作り、たかった。それ、を繰り返して、きた」
「僕らは、それになったよ」
「い、や、お前、らは、失敗作だ。この、バカども、が──」
 摂氏マイナス五十度以上に及ぶ外気によって身体中の細胞が壊死した彼を、激昂したシーラが宙へ高く放り上げた。両翼で圧倒的な推力を生み出し、同時に口腔内に殺意を揺らめかせる。
 可視領域の先、既に殆ど死んでいる彼が何か口元を動かしている。集音領域を拡大し、音声を拾い上げた。
『残念だ。これ、で私達は、神を、もう、創れない……』
 至近距離まで接近したシーラは高反応度科学燃料を撒き散らし、そして、彼を炎で包み込んだ。刹那の間もなく、彼の身体は焼失し、この世界から消えてなくなった。
 そして、世界からすべての生体反応が消えうせた。終わった。
『分かってたさ。そんな事は……』
「シーラ、戻っておいで」
 可視領域の共有を切断し、準有事戦闘態勢システムを解除。
 振り仰いでいた視線を望遠窓から戻し、ロッキングチェアに深く腰掛けた。
 テラスの手前にあるそれは既に真白い小山になっていた。
 一陣の風が起き、シーラが静かに大地に降りてくる。身体に降り積もる灰に構うことなく、博士の亡骸を避けてテラスの傍に歩み寄ってきた。

『コーロ……』
「……結局、僕もお前も、僕らと同じだったんだね」
『ああ、そうだな……』
「僕らは、我々の物じゃない唯一の拠り所になりたかった。……これは、博士への裏切りかな」
『さあな。俺にはわからん』
「相変わらずだなあ、お前は……」
 瞼を閉じた。
『どうする、コーロ』
「……寝よう。夢を見よう」
『……何故?』
「──新しい願いが聞こえてくるかもしれないよ」

 無垢な灰色の大地にいつか、誰かが小さな願いの種を撒くのを待とう──



 Gray Earth 終




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